- 犠牲者数
沖縄戦は、1945年4月から6月にかけて行われた沖縄本島およびその周辺地域において行われた戦闘である。
大東亜戦争の地上戦では、最大の犠牲者を出した戦闘であり、第二次世界大戦を通じた激戦の一つでもある。
犠牲者の数は、はっきりした数字がつかめていない。
現在、公式に使われている数字は、日本人死者188,136人で総務省の下記のウェブページにも掲載されている。
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/okinawa_04.html
最も大きな問題は、一般県民の数字であり、資料の不足、調査の不足などから、数値には資料によって幅がある。
このあたりの問題点とその理由については、大城将保氏が「沖縄戦における戦死者数について」沖縄史料編集所紀要(8): 55-71の中で記載されている。
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/7243/1/No8p55.pdf
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要因
一般県民の犠牲者数がこのような膨大な数になったのは、以下のような要因が挙げられてる。
- 司令部と防御陣がある首里のラインより後方となる南部に多くの人が避難したこと。
- 首里が陥落しても、日本軍が南部に撤退して徹底抗戦しようとしたこと。
- 日本軍が、住民に投降することを禁止したこと。
- 制海権、制空権を米軍に握られて、無差別の艦砲射撃等にさらされたこと。
- 沖縄の第32軍の中の第9師団の台湾抽出によって兵力の1/3を失ったこと。
- そもそも、大本営は沖縄戦を来たるべき本土防衛のための時間稼ぎと位置づけていたこと。
1の住民避難に関しては、島外への避難が、米軍の潜水艦等の攻撃によって、「対馬丸」事件のような悲惨な出来事がある中で、約8万人が避難している。また、島の北部への避難も85,000名程度行われたが、予定通りのものではなかった。北部は、マラリアの危険性もあり、それらによる犠牲者も出たが、結果的には、北部に避難した住民の生存率は高いものとなった*1。
2に関しては、八原高級参謀の主導と言われており、南部洞窟に立てこもったゲリラ戦は、米軍への打撃を与えることに成功し、バンザイ突撃一辺倒とも言える日本軍にとっては、戦術的には優れたものであったが、戦渦に巻き込まれた住民の多大な犠牲という点からは、大きな課題が残った。八原高級参謀は、米国留学の経験もあり、住民疎開計画にも尽力しており、旧日本軍という組織の中にあっては、希有な人材であったと言える。彼の軍人としての職務が本土防衛のために米軍にできるだけ多くの損害を与えると言うことだとすると、彼一人を責めるのは酷ということになろう。